もの書きのてびき聞く

千葉雅也インタビュー「書くためのツールと書くこと、考えること」

あの人に聞いてみたい、「書く」ことの話。今回は、著書『勉強の哲学』などで知られる哲学者であり、さまざまなデジタルツールを横断的に活用した執筆にも取り組む千葉雅也さんにお話を伺いました。

千葉雅也

1978年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。哲学、表象文化論。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に『動きすぎてはいけない——ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』、『勉強の哲学——来たるべきバカのために』、『メイキング・オブ・勉強の哲学』、訳書にカンタン・メイヤスー『有限性の後で——偶然性の必然性についての試論』(共訳)など。

制限が、書くことの支援になる

書くためのツール選びに積極的になったのは、ここ数年なんです。それまではむしろ、ワープロやエディタの欠点の方が目についていました。僕は、実家がデザイン会社を経営していたこともあり、中学生の頃からDTPソフトで遊んでいたので、ついフォントや字詰めが気になってしまうんです。たとえば、ワープロの横幅ぴったりの長さで一文が終わると気持ちが悪いので、次の行にまたぐように字数を増やすなど、見た目の気持ちよさを優先して内容を変えることがあるほどでした。しかし、だんだんと文書作成・編集のためのデジタルツールが増えてきたことで、それらのツールをもっと積極的に活用できないかと考えるようになりました。

書くことに関して、僕にとって革命的だったツールはTwitterです。140字という字数制限の中で、ひとまず一つのことを書き終えなくてはいけないという仕組みが、書くことの支援になったんです。このTwitterの書きやすさについて、著書『別のしかたで——ツイッター哲学』では「書き始めた途端にもう締め切りだからである」※1と説明しています。僕は、締め切りがないと仕事ができません。他なるものに区切ってもらわないと、自分で区切れないんです。

僕は、Twitterを執筆のツールとして使っている感覚なのですが、そもそも公開のツールなので、あまり練り上げていないことを書くわけにもいかない。そこで、Twitterに近い感覚で書けるクローズドな環境はないかと考えて、WorkFlowyのようなアウトライナー(アウトライン・プロセッサ)※2にたどり着きました。

キーになるのは、真っ白な紙に長い文章を書くのではなく、ある区切られた状態で断片を書いていくということ。Twitterの場合は字数制限がありますが、アウトライナーの場合は、箇条書きというシステムが潜在的に「短く書きなさい」とプレッシャーをかけてきます。つまり、見えない可変的な字数制限があるんです。僕は、アウトライナーをそういう有限性の装置として受け止めています。

※1 「なぜツイッターの一四〇字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである。[2014-5-21 12:21]」p.200
※2 文書のアウトラインを組み立て、編集するためのソフトウェア。階層構造のあるテキストを管理できる。

二段階に分けて書く

昨年の冬頃から、デジタルツールを活用した新しい執筆法を試みているんです。それは、『アイデア大全』などの著者である読書猿さんのブログで紹介されていた、レヴィ=ストロースの執筆法を元にしています。レヴィ=ストロースは、まずタイプライターで一気に粗いドラフトを書いてしまうらしい。そのあと、色鉛筆で書き込んだり、ホワイトで消したり、上に紙を貼って書き加えたりして、コラージュ作品のようになるくらい作り込むというんですね。その段階が自分にとっての本格的な執筆だと言っていて。それを知ったときに、この方法は今ならデジタルツールでできるなと思ったのです。

具体的には、まずWorkFlowyでアイデア出しをします。フリーライティングというやり方で、論理的な順序を考えずに、思いつくまま書いていきます。そのあとノイズを消しながら、順序を入れ替えてストーリーの流れを作ります。次に、それをプリントアウトしたものを参照しながら、Ulyssesを使ってドラフトを書きます。全画面表示にして、入力行が画面の真ん中で固定されるタイプライターモードにして、時間を限定して一気に書きくだします。このときには、言葉遣いの正確さや、スムーズな話の展開にはこだわらずに書きます。これが「レヴィ=ストロース稿」とでも呼ぶべき初稿です。そのあと、Scrivenerで編集を行います。レヴィ=ストロース稿をScrivenerに流し込み、大まかな意味の切れ目でカットして、編集モードで、赤字や青字を使って編集していきます。それができたら、最後はWordで仕上げます。

一つ目のポイントは、ドラフト段階とエディット段階を完全に分けるということ。ラフに書く段階に編集意識を入れないということです。二つ目のポイントは、ドラフトとエディットの差分を可視化すること。編集するときには字を別の色にするなどして、未編集の部分と編集済みの部分を区別しながら進めるということです。

とにかく一気に、最後まで書いてしまうということも大事です。僕は最近、部分を積み上げて全体を作ることと、一気に全体を書き上げることとは、全く違うことだと考えています。これは、機械と生命という区別で説明できて、積み上げていって全体になるというのは機械的発想で、一気に書いてしまうというのは生命的発想です。生命的とはつまり、部分の加算を超えるような全体性を作ってしまうということ。その上で編集を行うというのは、胚を作ってから細胞分裂させるというイメージです。まず産んでしまわないと、いくらパーツを積み上げても、胚にならないんですよ。

「分析」と「総合」を行き来する

考えを整理したいときには、デジタルツール以外に、手書きを使うこともあります。手で書いたものは、写真に撮ってEvernoteに蓄積しています。アウトライナーを使って、分析的に問題点を追求することもありますが、分析的になりすぎて行き詰まることがあります。その場合は、手書きで総合的に言いたいことを書いてしまうんです。分析的なアプローチと総合的なアプローチ、両方を行き来することで思考が整理されます。それから、一度書く作業をしてから数時間放っておくこともあります。僕は「冷蔵庫でマリネする」と言っているのですが、放っておくことで問題が解決することがある。寝る前に悩んでいることって、朝になると解決していることが多いですよね。それと同じです。

筆記具は、ざっくりとしたものを書くときにはペリカンのスーベレーンの青を、細かいものを書くときにはジェットストリームを使っています。ノートは無印良品の6mm罫のものですね。書くときに罫のことはあまり意識しませんが、完全な白紙よりも罫線がある方が気楽に使えます。

「視触感」がいいという感覚

デジタルツールでの執筆には、基本的にゴシック体を使います。ゴシック体の方が、視覚情報が少ないという感覚があるので、内容に集中して書くことができるんです。明朝体の方が視覚的に豊かなので、脳に余計な負荷がかかる感じがします。執筆の最終段階では、明朝体に直して、視覚面も含めたプロダクトとして見ます。ただ、エッセイや詩など文学的なものを書くときには、最初から明朝体で書くこともあります。

stoneを使うのは、文学的なものを書くとき、つまり言葉それ自体の質感を大事にしながら書くときです。最近発表した詩「始まりについて」※3はstoneで書きました。掲載時のレイアウトも、ほぼstoneで設定したままの状態で組んでいます。なんとなくstoneぽいですよね(笑)。それから、他のツールで書いたテキストの断片を、視覚的に気持ちがいい状態で膨らませたいときにも使います。

※3 「始まりについて」、『現代詩手帖』2018年3月号

以前ツイートで、stone のことを「視触感がいい」と表現しました※4が、視覚性と触覚性が結びついているような、いわば「見書き心地」がいいという感覚があるんです。現代人にとって、パソコンは文房具とも言えるツールです。文房具の持ち心地やすべりのよさなどと対応するエディタの要素として、フォントや字詰め、ウィンドウの広さ、タイピングしたときの文字の表示のされ方などがあります。それらから得られる総合的な感覚がよいということです。

stoneは基本、縦書きで使っています。とにかく縦書きがきれいなのがいいですね。ずっと縦書きのツールが欲しかったのですが、ちょうどいいものがなかったんです。字詰めもきれいで、括弧や句読点の前後を詰めていますよね。フォントも、欧文フォントと和文フォントを混植している。egword Universalでは、フォントの混植が自分で設定できて、欧文と和文のサイズ比率まで調整できるのですが、stoneにはそれが予め組み込まれていますね。あと、文字を入力してから画面上に表示されるまでに、若干タイムラグがあるのが書き心地としておもしろい。文字に物質性が生じるんですよね。文字が若干藍色なのは、かっこいいですが、目にやや負荷があるかもしれません。僕はもう少し濃い方がいい。長文を書くのには向かない感じがするので、気分によって設定を変えられるといいと思います。

※4 「これは詩を書けるよ。小説も書けるだろう。画期的な『視触感』だ。」 @masayachiba 2017-12-5 21:23

意味性のエディタと視覚性のエディタ

stoneの核心は、印刷的な見た目を手軽に実現してくれるところにあると思います。Wordをはじめ、これまでのエディタには、視覚的にさまざまな不満がありました。だったら視覚情報を減らしてしまった方が書きやすいのではないかという極論があるわけです。Ulyssesはどちらかといえばそういうツールで、カスタマイズがあまりできず、視覚に煩わされにくい設計になっている。マニュアルでも自ら「360度セマンティック(意味性)」と謳っています。

もう一つの極論としては、非常に美しい見た目を実現してくれればそれでもいいわけです。egword Universalとstoneは、かなり高い水準に達していると思います。さらにstoneの場合は、視覚的な設定を細かく変更できないというのがポイントです。つまり、視覚情報を減らした状態に固定するのとは逆に、視覚情報が豊かで、かつ完成度の高い状態で固定するという手もあったんです。そこがstoneのコンセプトのおもしろさで、ある意味、シンプルなエディタの発想を裏返しているんです。

stoneで美しく表示されたテキストには、「できあがっている感」とでも言うべき完結感があります。それも有限性の一種だと思います。普段、画面上で文章に手を加えようとすると、いくらでも修正できてしまって作業が終わりませんが、印刷して手で赤字を入れるときにはあまり迷いませんよね。stoneで編集すると、そういった、一度できあがったものに手を加えるような感覚が得られると思います。

stoneには、本質的に長文に抗う面があるかもしれません。あまりにきれいに表示されすぎて、長々と言葉を連ねようという気持ちにならないんです。一行書いただけで、完成品に見えてしまう。だから、俳句や短歌を書くのに向いていると思います。あるいは、エッセイぐらいだとちょうどいい。物を書くビギナーの人が、ちょっとしたエッセイや詩を書いて楽しむのにも適したツールだと思います。

「閉じ開いている」表現に興味がある

子どもの頃は、美術系の学校を出た両親の影響もあって、絵を描いたり、オブジェを作ったりすることが遊びでした。そこから言葉の仕事に入っているので、言語作品も基本的にプラスティックアート(造形美術)として捉えている部分があるんです。僕にとって言葉は、形や音、フォントも含めて一つのオブジェクトなので、それをどう配置するかが問題になります。そしてそれは、意味をどう伝えるかということと不可分なんです。だから、言葉を純粋意味だけで扱うことは基本的にありません。

言葉に対する意識は、論文を書くときと詩やエッセイを書くときで全く別というわけではなく、地続きにつながっています。ただ力点がどこにあるかという違いです。たとえば、最近『新潮』に発表した日記※5がけっこう気に入っているんです。それはエッセイのようでありながら、途中に俳句や短歌も挟まっていて、論理的考察も含まれている。あれは、自分の仕事が総合的に入っているもので、実験作だったなと思います。今後、このフォーマットでなにかできないかと考えています。

僕は、その人の持っている「症状」が表れている文章に興味があります。ある種の病の表現ということです。病というのは、ネガティブな意味ではありません。なにかその人の深い「享楽のあり方」のことです。人には、なんらかの享楽に閉じこもっている面がある。しかし、閉じていることが開いた形で表現されている、「閉じ開いている」ような表現を、いい作品だと感じます。それは、その人の存在が表れている文章ということ。ある書き方しかできないということが、大事なんだと思います。

※5 「創る人52人の『激動2017』日記リレー」、『新潮』2018年3月号

BOOK SELECTION千葉雅也さんが書く/読むことについて影響を受けた5冊

『意味の論理学 上・下』ジル・ドゥルーズ 小泉義之訳(河出文庫)

「この本は、長くまとまった章ではなく、“セリー”という短い文章の集積で構成されています。もちろん、ドゥルーズがここで述べている“ナンセンス”に関する哲学からは理論的にも大きな影響を受けていますが、このような断章的な構成からも影響を受けています。」

『カフカ式練習帳』保坂和志(文藝春秋)

「日々の思いつきを書き留めたような、断片的なテキストで構成されている不思議な本です。一見小説に見えないような小説で、文章を書く姿勢を解放的なものにしてくれます。」

『パトリック世紀』建畠哲(思潮社)

「“にわかなる庭鰐” “煙草の小旗”など、馬鹿らしくも思える言葉遊びや回文を真剣に取り扱っている詩集で、若い頃にとても影響を受けました。言葉の乾いた状態、意味の深みではなくただ言葉それだけがある状態がよく表れている本だと思います。」

『哲学の余白 上・下』ジャック・デリダ 高橋允昭、藤本一勇訳(叢書・ウニベルシタス)

「デリダのさまざまな哲学論文が掲載されています。こちらもおもしろい書き方がされていて、冒頭の『タンパン』というテキストでは、上下二段に分かれた二つの文章が同時に展開されるんです。いわゆる哲学論文のお行儀の良さからはみ出した、デリダの真剣な遊びに魅了されていますし、こういったものを書きたいと思っています。」

『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール 大浦康介訳(筑摩書房)

「読書に対する捉え方が変わる、革命的な本だと思います。読むことの不確定性を問題にしており、最後まで通読することで本当に読めたと言えるのか、本を正確に読むことなどあり得ないのではないかということを論じています。書き手としても、自分の考えをすべて伝えることはできないという苦しみと、完全な文章などないという許しの二重性について考えさせられます。」