もの書きのてびき聞く

永井玲衣インタビュー「他者の声とともに書く」前編

あの人に聞いてみたい、「書く」ことの話。今回は哲学研究者の永井玲衣さんにお話を伺いました。前編では、哲学対話を始めたきっかけから、そこに込められた永井さんの思いをお聞きしています。永井さんがおこなわれている「哲学対話」にちなんで、stoneチームのコピーライター・内田との対談形式でお届けします。

Interview, Text:内田 咲希 / Photo:岡庭 璃子

永井玲衣

人びとと考えあう場である哲学対話を幅広く行っている。Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。連載に「世界の適切な保存」(群像)「ねそべるてつがく」(OHTABOOKSTAND)「これがそうなのか」(小説すばる)「問いでつながる」(Re:Ron)など。詩と植物園と念入りな散歩が好き。

うまくいかなかったからこそ、もっと試みたくなった

内田 永井さんの肩書きは「哲学研究者」ですが、具体的にはどういう活動をされているのでしょうか。

永井 多くの哲学研究者は、哲学を学問として修め、論文をたくさん書いて研究者のポストを目指していくのが一般的です。私はそうではなく、人々と対話をする「哲学対話」という活動と、そこで聞いたり考えたりしたことを書くという活動をしています。哲学対話というのは、さまざまな人と集まって、哲学的な問いを深めていくための場を開くこと。「哲学的な問い」と言ってしまうと大層で高尚で難解なんだろうと思われてしまいがちですが、そうではありません。人が日常の中で「モヤモヤするな」「どうしてこうなんだろうな」と考えてしまうものを改めて問いのかたちにする、というのが近いと思います。

内田 いつもは通り過ぎてしまうようなことについて、じっくり考えられる場をつくられているんですね。哲学対話を始めたのはどんな理由からなんでしょうか。

永井 もともと私は「他者とともにあるというのはどういうことなんだろう」という問いをずっと抱えていて、大学でも他者論を勉強していました。他者論では、例えば「他者と一緒にいるってなんでこんなに難しいんだろう」「1対1で接するときは普通でも、それが集団になった途端にどうしてこんなにめちゃくちゃになってしまうんだろう」というようなことを考えるんです。そんなときに「哲学カフェ」と呼ばれるイベントの運営を手伝ってほしい、と言われて。行ってみたら、人々が難しい顔をして「自由とは何か」について語っているんですよ。「なんだこれは?」と思ったのが、哲学対話との出会いでした。最初は「なんでこんなに他者とうまくできないんだろう、嫌だな」と思ってしまって結局うまくいかなかったのですが、なぜか同時に「もっと試みてみたい」と感じた自分もいて……。その思いを抱えながらずっと足を運び続けて、自分でも哲学対話を始めるようになって、今に至ります。

哲学が日常にあふれ出る瞬間

内田 哲学対話が具体的にどのような流れでおこなわれるのか、改めてお聞きしたいです。

永井 哲学対話の始め方は人によってさまざまなのですが、私はまずこの場が非日常な空間であるということをはっきり言葉にします。なぜかというと、枠組みを意識的につくらないと対話は現れてこないと考えているからです。そして次に「よく聞く」「えらい人の言葉を使わない」「人それぞれで終わらせない」という3つの約束をします。3つ目の「人それぞれで終わらせない」というのは、あくまでスタート地点。そもそも参加者によって意見や感覚が違うのは当たり前なので、その違いを楽しんだ後に問いを掘り下げていきたいんです。私はこの状態を「ばらばらになる」と呼んでいるのですが、ばらばらになって初めて人はつながることができると思っています。それから自己紹介をしていただくのですが、私はこの時間が結構好き。その人の仕事や本名は一切聞かずに、「この場で呼ばれたい名前を教えてください」とお願いしています。普段とは違う場所で、いつもの自分を脱ぎ捨てて、新たな名前を自分でつけてもらうんです。目の前にあったから、という理由で「本棚」や「爪」のような名前になることもよくあります。そのあとが問い出しの時間。じっくり話して、問いをひとつ決めて、みんなと対話をします。そして時間が来たら終わる、という流れですね。

内田 えっ、時間が来たら議論の途中でも終わっちゃうんですか?私だったら慌ててしまいそうなのですが……。

永井 私のやり方は激しいと言われるんですが(笑)、時間が来たら本当に終わります。みんなの顔がわーって明るくなってきて何かを掴めそうになっている瞬間でも、突然「はい、時間が来たので終わります。ありがとうございました」と言って終わります。みんな本当にびっくりしますよ。「これで終わりですか?」ってよく言われます。こちらから「今日はこんな学びがありましたね」とか「哲学対話にはこういう意義があるんですよ」とまとめることもありません。そもそも、終わるわけがないんです。私が「終わります」と言うだけで、みんなの中の哲学が終わるわけがないって、信頼しているから。だって、みんな気になって、終わったあとも周りの人と話が続くんですよ。学校だと子どもが話しかけてくることもあるし、家に帰って家族にその話をする人もいる。「哲学が日常にあふれ出る」と私は言うのですが、そこを信頼しているからこそ、パッと終わってしまうのかなと。

哲学対話は、はっきりとした成果物が出るものではありません。けれど、終わった後には一人ひとりの考えが明らかに深まっていると思うんです。なんというか、モヤっとしていたものに輪郭が付いてくるんですよね。「これとこれの違いってなんだろう」「あれ?でもこれってなんだろう」と問いが重なっていく感じ。積み上がっていくより、掘り下がっていくイメージですかね。「答えがないから、意味がないってことですね」という、簡単な話ではないだろうなと思います。

引き摺られて思い出される問い

永井 私は、「哲学は始めるのではなくて、もうしてしまっているはずだ」と思っています。先ほども出てきましたが、哲学対話の冒頭に「問い出し」という、みんなが不思議に思っていること、モヤモヤしていることを言葉にしていく大好きな時間があるんです。例えばワークショップだと、1枚ずつ紙が配られて「思いついた問いを付箋に書いて貼ってみましょう」などがよくあるやり方ですよね。もちろん、それも素敵。でも私は、問いは「思い出されるもの」だと考えています。そして、思い出すのに必要なのは「他者の存在」。最初はみんな、首を捻っていることが多いんです。でも、どこかのタイミングで誰かがふと「そういえばこんなことがあった」というのを、ぽつり、ぽつり、言葉を探しながら、その場に置いていく。それをみんなで眺めていると、いろいろなものが湧き起こってくる。そして引き摺られるようにどんどん思い出して、その場があっという間に問いで埋め尽くされるんです。

内田 ほんの小さなきっかけで、自分が考えていたことや昔の思い出がわあっと押し寄せてくることってありますよね。

永井 そうなんです。ただ、そういう場がこの社会に、圧倒的に存在していないとも思っています。一緒に聞いたり聞かれたりすることはあっても、一緒に考える、一緒に思い出す、一緒にもがくとか。ままならなさの中で一緒に生きるということを、意識的にする経験がほとんどないですよね。Q&Aみたいな形になったり、何か他愛もないことをとりあえず言うだけに終わったりすることはたくさんありますし、「ああいうふうに言えばよかった」と後悔することもあります。でも逆に、そこが大丈夫じゃなかったり、緊張していたり、待ってもらえなかったりする環境でみんな普段生きているんだなということを感じさせられる瞬間ですね。

「個人の悩み」を「みんなの問い」に

永井 私、会った人にすぐ問いを聞きたくなっちゃうんですよね。せっかくなので、内田さんの最近の問いを聞いてもいいですか。

内田 いいんですか?問いというより、悩みに近いのですが……。私はコピーライターとして働き始めて3年目になります。ベテランの先輩たちに囲まれながら仕事をすることが多いのですが、先輩たちは自分に「完成度よりあなたの考えや意見を聞きたい」というふうに言ってくださっていて。それ自体はすごくうれしいのですが、「そもそも私の意見ってなんだっけ?」と思ってしまうことが結構あります。「自分って普段何考えてたんだっけ?」とか「そもそも自分って何が好きなんだっけ?」とか、ふと考え込んでしまうタイミングが増えました。打ち合わせの場だと「なんか言わなきゃ……!」と焦ってしまうことも多いです。

永井 なるほど、いい問いですね。それって、いわゆる「悩み」に個人化されてしまうことが多いじゃないですか。新人のあるあるとしてまとめられたり、勝手にアドバイスされたり、人それぞれにされちゃったり。でも哲学対話では、その悩みをみんなの問いにするんです。「私」という概念自体すごく哲学的じゃないですか。「私の言葉って何?」「私って何?」って。こんなに哲学的なことはないのに、それが個人化されちゃったり消費されちゃったりするのが、ちょっと悔しいなって思うんです。

最初はすごく個人的な話でも、みんなの前に引き出されて、そこにいろんな人の考えが参照されていくと、問いが普遍化していきます。いろんなことが問いに見えてくる。みんながいて、その場で考えていいし、立ち止まってもいい空間だからこそ、「あれ、それって……?」ときちんと引っかかることができます。引っかかったり、突っかかったり、転んだり。「なんでだろう、わかんなくなっちゃいました」という、不器用な身体みたいな無防備さが他者の目の前に出されるという経験が、私にはすごく不安で面白いんです。

内田 今のお話を聞きながら考えていたのですが、私は「大丈夫?」と聞かれたときに「大丈夫じゃない」っていつも言えないんです。本当は大丈夫じゃないのに、なんだか怖くて。だからこそ、立ち止まったりわからなくなってしまったりするのが許される空間を、おまじないをかけて、日常と切り離した別の場所として丁寧につくっていくことがすごく大切なんですね。

永井 そうですね。「私たちはなぜこんなにも大丈夫じゃないのか」という問いは、この10年、対話の場を開くうえで軸となっています。自分含め、多くの人が今話してくれたような経験をしているんじゃないのかな。「どうしよう、なんかいいこと言わなきゃ」と、みんなが常に思っている。取材で「対話とはなんだと思いますか?」と聞かれることがあるのですが、正直に「いや、それが分からないんですよね……」と言うと、すごく困った顔をされます(笑)。そういうとき、私も「なんか言わなきゃ……!」と思うのですが、同時にすごく不思議で。哲学対話はそういうものへの抵抗でもあるんです。早く結論を出してすっきりしたいけど、「あえてゆっくり待つんだ」「すっきりさせてやらないぞ」という意思もあると思います。むしろ、そのくらい意識的につくらないと、なかなか見えてこないものなのかもしれないですね。

ものごとを適切に保存する

内田 永井さんの著書『水中の哲学者たち』は、堅苦しいイメージのある「哲学書」とは少し違いますよね。エッセイという切り口で書いてみようと思ったきっかけはありますか。

永井 自分が哲学について文章にしようと思ったとき、論文という形でしか表現できないことが不満だったんです。私は「哲学をすることは、よく見てよく聴くことだ」と考えているのですが、よく見てよく聴いたものを余すことなく書きたかった。例えば論文だと、抽象化する、お決まりの文体があってそこに乗っかる、というルールのようなものがあるんですね。それが我慢できなくて、必然的にこういう文体になりました。

私は本に育てられたところがあり、書く人にはとても憧れていました。ただ、今まで文章を書くこと自体はあまりしてこなかったんです。『水中の哲学者たち』に収録されている『死ぬために生きているんだよ』という章が、論文以外でまとまった文章を書いた経験としては初めてかもしれません。このときは、「この体験を保存しておかないと」と思ったんです。周りの人から「文章で何を表現したいのかわからない」と言われたこともあったので自信はなかったのですが、自分の好きなように書いてみようと思ってできたのがこの本です。

内田 文章を書くようになって、生活や考え方に変化はありましたか。

永井 むしろ、変わらずに大切にしていることが浮き彫りになったように思います。今『群像』という文芸誌で書いている連載が『世界の適切な保存』というタイトルなのですが、私には昔から「世界を適切に保存したい」という欲求があって。さっきの「余すことなく書きたかった」という話も、ここにつながっています。例えば、世界をよく見たときに、多くの人の目につくものは私以外の人が保存してくれるだろうから安心できる。私が気になるのはむしろ、忘れられそうなものや目に入らなそうなものなんです。子どもの頃からずっとそうで、コンビニの店員さんの名札などを全部書き溜めていました。私が適切に保存しないと、素敵なものが失われてしまうようで怖かったんです。

哲学対話をしに行くのも、似ているところがあると思っています。私は、現代において「哲学は誰のものでなくさせられてきたか」ということが気になるんです。もちろん、哲学するに値する人が特別にいるわけがありません。でも、特定の属性の人たちは「話を聞かれる必要ないでしょ?」「哲学なんて縁遠いでしょ?」と勝手に決めつけられてきました。本人たちがそう思い込まされていることもあります。そういった方々の言葉をできるだけたくさん聞いて、この世界の断片をできるだけ保存したい。この思いが、今、いろいろなところに行っている動機になっていると思います。しかも、ただ単に写し取るのではなく、自分の中に落とし込んでから保存したいんです。だから「適切な」という言葉を付けています。うごめいている状態で取っておくには、冷凍保存じゃなくて外の空気に触れさせることも大事ですよね。例えば、何度も同じエピソードを語り直すこともそのための試みだと思います。経年変化を無理に止めるのではなく、書き直したり語りなおしたりすることで息をさせる。それがちゃんと生きたまま誰かに受け取られて、その先で何かが育ったり広がったりする。書くことには、そういった良さがあると思います。